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  • 執筆者の写真Makiko Kaiser

311 あの日の記憶

ぶっちゃけコロナにもだいぶ飽きてきました。

2011年3月11 日、東日本大震災のメモリアルデーです。


この時期になると繁忙期なので現場で色々な通訳さんと

「あの日どこで何をしていたか」という話になるのですが、

今年はコロナのため家で事務作業。

経理作業やら、明日の仕事の準備やらを粛々と進めておりました。

(忘れていた1月のレシートが出てきました。びっくりしたー)


そんなわけで一人で311振り返りをしてみたいと思います。


先日もちらっと書きましたが、

あの日私はドイツ系メーカーの社内通訳として勤務しておりました。

数日前から大きめの地震が何度かありました。

出張で来ていたドイツ人に地震とはどういう仕組みで起こるのか、

という説明をしていたことを思い出します。

今にして思えば前触れだったんですよね。


本震が発生した時、私は自席で何かのパワーポイントを翻訳をしていました。

勤務先のオフィスは高層ビルの27階で、

レールの上を走らせる式の可動棚が天井から床までありましたが

それが右から左へ動いてしまいガチャーン、ガチャーンと

滑ってぶつかって跳ね返っていたのを思い出します。

体感の揺れよりも、その棚の様子をみて、うわ、こりゃ大きいわと思っていました。


高層階ですので、回転するような揺れが何十分続いたでしょうか。

外から見ていた人の話によると、ビルがしなって互いにぶつかりそうだったそうです。


地震の経験が乏しいドイツ人の皆さんは顔面蒼白。

経営陣もどうしたらいいのかわからなかったのでしょう。

社長が我々のフロアに来て「out!」と屋外退避の指示を叫んだのは

地震発生から1時間はゆうに経っていました。

その後も誰からも系統だった指示は出ずに、out と叫ばれただけで自由解散。


JRが止まってしまい、だんだん薄暗くなってきたため

歩いても日没までに家に着かないと判断してその日は帰宅を諦め、

同じビルの2階の廊下で夜を明かしました。

2階のテナントの某日本企業の方が、その会社の備蓄品である毛布を貸してくださいました。


携帯で、電話は繋がらないのにインターネットはつながったので、

災害の様子を確認していましたが、

「壊滅」という言葉を初めて見て「壊滅ってどういう意味だろう」と

ぼんやり思っていたのを思い出します。

その時は津波の映像はまだ見ていなかったと思います。


インターネットラジオのニュースを聞いて、

駅前の商店まで、食糧の買い出しにも行きました。

最後に残された在庫の中から食パンか何か買ったような気がします。


一晩中続いた余震の合間、借りた毛布にくるまって少しは眠り、

翌朝電車が再開したので家に帰りました。


日本企業は早々にオペレーションを開始したようですが、

そのドイツ企業では結局その後2週間自宅待機となりました。


記憶が定かではありませんが、ドイツ人は会社負担で大阪に避難できていた気がします。

と言っても確かそれは日本に家庭のある現地採用の人々の話で

出張できていた人はあっという間に帰国してしまいました。

福島の事故を受けて、あの時ドイツは一番判断の早い国の一つではなかったでしょうか。


outと叫ばれたので慌てて出てきてしまいましたが、

コップにティーバッグを入れたまま、飲みかけのままデスクに置いてきてしまった。

アレは腐ってないだろうかという心配を自宅待機の2週間していたのを思い出します。


そんな311の思い出でした。



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